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スキルアップとかいう言葉その2

ITエンジニアに旬なスキルは何か? - @IT自分戦略研究所

こういう文章って誰が読むんだろう。
同社の教育・研修コースのトレンドからITエンジニアに「何が求められているか」を浮き彫りにしてみよう。

その受講トレンドにおけるキーワードは「ヒューマンスキル」「プロジェクトマネジメント」「ITサービスマネジメント」(ITIL)、「システム基盤」だ。

あー…やっぱり出てきた「ヒューマンスキル」。
会議のようなグループ活動が円滑に行われるように中立的な立場から働き掛けを行う「ファシリテーションスキル」や、潜在能力を引き出す「コーチングスキル」、あるいは「ヒアリングスキル」

うん。会議の上手なしきり方(「しきる」んじゃないって知ってるよ)と部下の上手な使い方とお客の話の聴き方ね。

なんか、大学で手品のサークルやってたときを思い出した。
当たり前なんだけど、飲んでるときに普通に喋ってて面白い人が手品やると面白い。そうでない人が手品やるとつまんない。場合によっては鬱陶しい。
でもサークルに入ってくる新入生が一番多く口にする入会動機は、
「話し下手なので飲み会とかで使えるかなと思って」
だった。

彼らは手品を練習して、ある人は明るく喋ってお客を喜ばせるようにもなり、ある人は陰鬱に俯いたままお客がひくのもかまわず手順を遂行した。

そういう痛々しさが「○○スキルを身につける」っていうことばの向こう側に見えるような気がしてならない。

僕にはこの記事よりもウチダ先生の「まず日本語を」という文章のほうがしっくりくる。
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by tockri | 2006-05-17 12:56 | ├ かんがえごと

そういえば服のことで不思議なこと

これは昔からの疑問なんだけども。

大学生のころ塾講師のバイトでスーツネクタイ着用が義務付けられていた。バイトを始めた当初は事務の(元ヤンの)姉さんに「七五三みてえだぞtockri~」と冷やかされてたのが、何年か着続けてるといろんな人に(初対面に近くても)「tockri君てスーツ似合うねえ」といわれるようになった。

大学生のころセミプロみたいな手品師みたいなことをしていた。お客の前に出るときはいつも一風変わった衣装。しぜん(たぶん感覚が歪んだんだ)、普段着も夏は派手なアロハとか、少しカブいた格好をするようになった。最初のうち「また変な服着て」と言っていた友人たちもやがて何も言わなくなった。で、今。そのころの僕を知らない妻は「変な服が似合う」と言う。

この現象って、なんなんだろう。周りの人が慣れていくってだけじゃなく、服に体とか顔とかがなじんでいくのか。不思議だ。
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by tockri | 2006-01-20 15:18 | ├ かんがえごと

やりこみと解脱と念仏

芸事やスポーツ、武道など、稽古と熟練の必要な分野で大成した人というのは一種共通した何かを持っている。そんなことを、押尾コータローのCDを聴きながら思った。

後に(僕の好むやり方で)大成する運命にある人は、ある時期にとんでもない集中力で、たっぷりと時間をかけて、それこそ寝てもさめてもそればっかりを突き詰めていく。

ただ集中して練習するだけではなく、試行錯誤を繰り返し、いろんな限界に挑戦して、あるときは失敗したりして、でもめげないで、ひたすらに自分の内側やその対象の深遠に向かって掘り進んでいく。その姿は傍から見れば狂気に近い。

ギター一本でボレロを弾いてみたりするのも、ただボレロをやりたいなら二人とか三人で弾けばいいようなものだけど、そういう行為には人に説明できるような理由はなく、「やりたいから」だけなんじゃないかと想像する。
イチローがバッティングフォームに試行錯誤するのも、世界的に有名なある手品師が若い頃にひたすら巨大トランプを出し続けたのも、そういう時期のことであって、逆に言えばそんな「まだ途中」にあるにも関わらず一定以上の成果を残せてしまうほどの狂気の強さが、(僕の好む種類の)大成には必要なのだろう。

また、直接的な成果(音楽性とか、打率とか、入賞とか)が芳しくないとしても、そういう狂気の様そのものに魅せられてしまう人もいて、そういう人は後で少しさびしい思いをすることになったりもする。


そして、そうやって突き詰めていったある頃、急に彼は「解脱」あるいは「方向転換」する。僕にはその世界を想像することが難しいけれど、その結果はわかる。彼がギターをポロンと一音鳴らせば観客はうっとりとし、彼が力まず打った打球はことごとく内野手の間を抜け、彼がトランプをただファンに開いただけでどよめきと拍手が起こる。

その状態に達した人を数値的に分析していけば、弦に爪が当たる角度や音符のカドのところの数十分の一秒の出し入れだとか、バットの始動時期と視界の移動とか、体の使い方と手の表情と目線の配り方とタイミングだとかそういうものになるのかも知れないけれど、その極意を直接に求めていたのではおそらくそれを手に入れることはできず、結局あの狂気の時期の延長線上にしかないのだろう。


違うようで同じなんじゃないかと思えるのは法然上人が言った言葉で、上人が死ぬ間際に、つまり彼が自らの信仰の総決算として遺した文章にも「ただひたすらに念仏すべし」とある。中学で(浄土宗の学校だったので)習ったときにはそんなことでいいんだろうか、ただ唱えるだけじゃだめなんじゃないのかと思ったものだが、きっといいんだろう。そのかわり意味とか全然わからなくても、それこそバカみたいに唱えまくるんだということなんじゃないだろうか。


ちなみに僕が手品や大道芸をやりこんでいた時期は非常に短く、傍から見ればバカじゃないかと思える程度にはやりこんでいたけれど、大成するにはまったくもって全然浅く、その上「解脱した人」を間近で見てしまったときに楽をしようとして極意を直接求めようとしてポキンと折れてしまった。ヘタレだった。
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by tockri | 2005-12-28 12:51 | ├ かんがえごと
 
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