哲学書を読むように

哲学書と若隠居さんとか小倉さんとか記者さんのブログなんかとで何が違うんだろうなんて考えてた。

たとえば
「語の意味とは言語におけるその使用である」
なんて書いてある哲学書を読むと、最初は「!?」と本能的に違和感を感じて、で、一生懸命読み直す。「きっとその人なりの何か整合した理屈がそこにはあるに違いない」と思うので、意味使用意味使用意味・・・とか唱えながら(怪しい)、他のページも総合してなんとか自分なりに納得しようと頑張る。そして
「ああなるほど、あなたの言いたいことはそういうことか」
と腑に落ちて初めて、その整合した理屈に賛成なり、反対なりをする気がおきてくる。

そこで読み直すこともせず自分で勝手に言葉尻から「オレ解釈」を組み立てて
「意味と使用を同一視するというのは、頭で考えるイメージと体を使う行動を混同するってことじゃないかおかしい、あんたの論理は破綻してる」
みたいなことを表明しちゃうと、哲学を勉強してるほとんどの人から「バーカ、出直して来い」と一蹴されて誰も同情してくれない。哲学を勉強してないほとんどの人は、勉強してる人の優位性を認めているので、そこに飛び込むには自分に準備が足りないと判っていて、怖いからあえて口をつっこむことはしない。もちろん僕も口をつっこめない側の人です。


ところが学問として体系だてられていないこと、「勉強してる人」がいないような話題が書いてある場合、そういう、本来的に優位な立場にある人というのがないから、怖さがない。

普段から一生懸命読み直して「その人なりの整合された理屈があるんだろう」と想像しようとする癖がついてないような人だと、自由気ままに「オレ解釈」を作り上げて、それに対する批判を堂々と表明してしまえる。

たいていそういう「オレ解釈」はシンプルで誰にとっても(元の記事より)わかりやすいため、「一生懸命に読み直さない」種類の人はそちらを「元記事の意図」として採用し、批判者に同情する。

そこで記事を書いた本人や「読み直して納得しようとする」側の人が、いやそういうことを言ってるんじゃなくてとか言ってももう後の祭りであって、批判者集団と化してしまった群集は止まらない。批判者集団を衝き動かすエネルギー源は「他者を貶める快感」であるのに対して、批判が的外れであることを指摘する側にはどうにも強いエネルギー源がない。自分がわけのわからん批判をされることを許せないという自尊心は、やがて折れる。
「めんどくせーからもういいや、バカどもには言わせとけ」
最後っ屁に捨て台詞を残したり残さなかったりして、書くことをやめてしまう。


どうすればいいのか。

一つの解答は、bewaadさんのように、「他の解釈を許さないほど徹底して緻密に書く」こと。でもそれを全ての人がやり始めたら、正直、読むのしんどい。

もう一つの解答は、内田樹さんのように、「ほとんど全てのコメントに一切取り合わない」こと。でも彼の場合は著作もたくさんある大学教授という地位自体が「怖さ」を醸し出しているというのも大きいように思うし、やっぱりコメント書いたら知らない人でも返事は欲しいよね、ていう気もする。


普通の人が書いた、軽妙にポラライズされたストレートな文の裏に深い思惟がある気持ちいい文章を中心にコミュニティもできあがりつつ、そういう場が長く生き残り続ける道はどこかにないものか。
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by tockri | 2005-07-28 11:56 | ├ かんがえごと
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